STORY 02

三代目・森 純一の挑戦 〜昭和から平成へ〜

 時は下り、日本経済を狂わせたバブル期前夜に、タスキは三代目へと手渡されます。
子どもの頃から工場に出入りし、母親にくっついて糸繰りなどを手伝っていた三代目・純一。働き通しの母の姿を見て育ち、いつしか自分もこの世界で生きることを感じていました。そんな純一が森博多織を継いだのは、昭和58(1983)年。福岡市では、地下鉄や都市高速が相次いで開業した頃です。当時は和装業界も景気が良く、事業は好調でした。

 しかし、急激に変化していく日本人のライフスタイルとファッション事情は、純一の危機感を募らせます。先細りの和装ニーズに対し、業界には打開する新商品やムーブメントがなく、行政頼みでどうにかなる問題でもない。

 では、どうする?

〝和装を越える〟三代目の挑戦は、ここから始まります。
 まず考えたのは、博多織の命である「絹」を使った新製品を作ることでした。見た目や肌触りに加え、吸湿性や通気性にも優れた絹。それを活かして、人の役に立つものを作りたい。そこで、蒸れや締め付けの少ないストッキング、寝たきりの方の床ずれを予防するシーツ、そして医療用の包帯など、思いつくモノをさまざまに試作しました。因みに、タンパク質繊維の絹は人体と親和性が高いため、手術の縫合糸などにも使われています。

絹の商品開発について熱く語る三代目の森純一。

 試作品ができ、医療関係者や専門家に持ち込みますが、結果は思わしくありません。絹は糸の種類が少ないため用途が限られること、何より高価な点が障害でした。「医は仁術とは言うけれど、ものが良くても高ければ使われないよ」とは医療関係者の弁。純一は、絹によるものづくりの難しさを痛感しますが、開発をあきらめませんでした。

 絹の長所は活かしながら、誰もが使える日用品を__。科学的な知見を求めて県の工業技術センターにも協力を仰ぎました。その結果辿り着いたのが、「絹セリシンパイル織」。生糸を構成するタンパク質のひとつ・セリシンは、保温性や保湿性に優れながらも、精錬の過程で除去されます。純一は、このセリシンを定着させた状態で、織布の表面に糸のループを作るパイル織りを完成させたのです。

 開発は続き、平成22(2010)年、ついに森博多織は和装の域を越える一歩を踏み出します。絹セリシンパイル織のボディタオル『博多つや肌』の誕生です。この繊維は後に、保湿性や吸水性だけでなく、温感性や消臭性にも優れることが認められ、特許も取得します。
三代目の悲願ともいえる、絹の長所を活かした良質な日用品づくり。その基礎ができたところで、タスキは四代目へと渡ります。